大石天狗堂口伝 第五章
皆さんこんにちは。広報のFです。
またまた【大石天狗堂口伝】前回の続きで【骨牌税(かるたぜい)】のお話を続けてまいります。
(明治35年)から導入された骨牌税は、平成元年(昭和64年、西暦1989年)の消費税導入まで、名前を変えたりして施行されていました。
かるた製造業者が税務署から証紙を買い、この証紙を貼った商品しか製造場所(各店舗)から出荷出来ないという厳しい税法でした。
当店の役員で骨牌税廃止時を知る方が言うには、『税務署に証紙を買いに行くと、一枚一枚に連番が印刷されていて、まとめて買って来て使っていた』
『出来上がった花札を専用のラベル紙で包む時、最後に留める所に証紙で封をした商品でないと、出荷させて貰えなかった』
『その当時(消費税が導入される直前ですから昭和後期の話)は、花札の証紙が1枚30円位。
麻雀用が500円位やったと思うけど、30円でも当時の花札の価格が1,000円のもあれば、800円のもあって、どれも一律30円の税。儲けの4%近くが税金で徴収されるシステムやった』
『しかも今の消費税と違い、売れる前から作った時点でお金を払わないといけないから、売れないと大変。すぐ売れればいいけど、なかなか売れない時は…』
『毎月月末に「何番から何番を使用した」と税務署に申告すると、「あと何番からの証紙が残っていますよね」と確認されるんやけど、これが本当に大変やったわ~。合わなかったら必死で計算したし!』
『だから消費税が導入された時は、本当に嬉しかった~』
と話して下さいました。
これじゃあ、潰れるカルタ屋が続出したのも無理もない話ですよね。
(取り締まっても隠れて花札を作る店が無くならないなら、代わりに高い税金をとればいいじゃん!)という明治政府の思惑に、それまでホクホクのカルタ屋さん達は、ビックリギョーテン!
かるた屋がジワジワ店終していった中、生き残った数少ないカルタ屋が【任天堂】【田村将軍堂】【松井天狗堂】(現在 松井さんはやめられましたが)そして【大石天狗堂】でした。
カルタ屋に厳しい時代。
それなら、花札以外の物を作ろうじゃないかという事で、どのお店も知恵を出し、研究を重ね、コツコツ頑張り今日に至りました。
満州に支店を持っていた大石天狗堂は、その外交ルートを使い、麻雀牌の輸入(日本で初めて麻雀牌の輸入をしたのは当店です<(`^´)>)
公式競技用百人一首の製作(全日本かるた協会公認、公式競技用百人一首シェア100%<(`^´)>)
江戸時代の巨匠:尾形光琳の幻の百人一首の復刻(復刻の際、本物を見たぜ~<(`^´)>)
*私が見たのでは、ありませんけどね(筆者)
玩具としての卓上手織機の発案製造
(【手織りプチ】という商品名で一世を風靡した<(`^´)>)
等々。
カルタだけに留まらず、囲碁・将棋など伝統遊具、玩具を取り扱う事などもしつつ生き残ってきました。
今では、『百人一首と言えば大石天狗堂』『現在営業するかるた屋では日本最古』と認知されていますが、歴代の頭首の方々の、それまでのご苦労があればこそだと思います。
以前、8代目当主(現社長のお父さん)が話されていましたが『大石も京都の町だから続ける事が出来た。他の町では続かなかっただろう』という言葉が思い出されます。
その当時は、言われている意味が良く分からなくて、そういうものなのかと聞いていました。経営者のご苦労は正直わからないですが、たしかに老舗のしかも何代も続くお店は京都には多くありますし、【京都の老舗】という看板があるからこそ成り立っているとも言えます。
この京都の特産(かるた)が京都に存在した理由の一つは、京都は長く王城の地で、天子様の膝元に住む公卿たちが生活の足しに、歌かるたの絵や文字に筆を執っていた事もあり、自然とカルタ屋も京の町に留まったのが要因でしょう。
それでも、じゃあ京都にお店を構えれば必ず成功するとも限らないし、ましてや何世代も続けられるものでもありません。
ですから何代も続いているお店は、それだけで無形文化財だと筆者は思います。
8代目も、おそらくは謙遜して話されたのだと思いますが、みなさんは、どうお感じになりましたか?
To be continued
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