性善説と性悪説 どっちが正しいのか?
皆さんこんにちは。
広報の藤澤です。
宜しくお願い致します。
6月になり、暑くムシムシした季節がやってまいりました。
扇風機やエアコンを点けて、家でぐったりする【夏】
夏用のサンダルで近所にお出かけしてしまう【夏】
折角の夏ですから体調管理に気を付けつつも、楽しく夏を乗り切りましょう。
さてさて
人間には『元々人間は善である』という人と『元々人間は悪である』という人がいます。
つまり【性善説】と【性悪説】の事ですね。
【性善説】人間の本性は基本的に善であるという説。
孟子の儒教の教えが由来と言われています。
内容として
(四端の心)
惻隠:他者の苦境を見過ごせない憐れむ心 ⇒発展して「仁の心」
羞悪:不正を羞恥する心 ⇒発展して「義の心」
辞譲:謙譲の心 ⇒発展して「礼の心」
是非:善悪を分別する心 ⇒発展して「智の心」
上記の善の心が芽生え、いずれ聖人君子の心境に達するのだという考えのようです。
つまり、道で信号が渡れないで困っているお年寄りを助ける若者や、人が見ていないところでも自分のやろうとする悪事を顧みて思いとどまるのと同じような考えですね。
それに対する考えが
【性悪説】
性善説に反して荀子が唱えた、人間の本性は欲望に弱いが、後天的な教育や努力により、公共的な善を知り礼儀や考え方を正せるという教えのようです。つまり努力次第で善になれるという事。
ん?
よく見ると、同じことですよね!
【性善説】の場合 <スタート(善)>⇒<努力>⇒<ゴール(より善)>
【性悪説】の場合 <スタート(悪)>⇒<努力>⇒<ゴール(善)>
要は、どんだけ今より努力するかが大事かって事ですよね。
それにどちらの考えにも、メリット・デメリットはあります。
【性善説】の場合 <他人の良い面を見て信頼する事で、人間関係が円満になるが、だまされる事も>
【性悪説】の場合 <他人は悪であるという考え方から、だまされる事が少なく独立独歩の考え方も養えるが、周囲に心を許せる者がいなくなる>
ほかにも【善悪両方説】(※それはずるくない?)だとかもあるようですが、おそらく最終的には、努力次第結果が変わるんだろうなと思います。
今回かるたと関係なかったですが、かるたの練習も、筆者の仕事も、最終的には本人の努力次第で高見を目指せるのか、現状維持なのか変わるという事。
なんとなく上手く話がまとまったところで、今回はこの辺で。
おあとが宜しいようで~
チャカチャンチャン
チャカチャカチャンチャン