尾形光琳の幻のかるた『光琳かるた』の秘密
みなさんこんにちは。大石天狗堂 広報の藤澤です。
当店の扱う百人一首の中で、もっとも高級で希少価値の高い逸品。
それは、『光琳かるた』。
これは、江戸時代の絵師 尾形光琳が作った幻の百人一首を復刻したものです。
歴史的資料の中にこのかるたの、下絵と思われる画稿が残されていることから、専門家のあいだでは、尾形光琳筆「小倉百人一首」が存在するのではと噂されてきましたが、近年にいたるまで行方が分からず「幻のかるた」と呼ばれてきました。
ところがさる旧家の蔵より、まったく使用された形跡の無い状態で保存された完品が見つかりました。
光琳かるたは、一般の百人一首よりも大きく、光琳筆の歌仙絵が描かれ、金地に群青・朱などの濃彩が施された豪華なものでした。
そして光琳かるた最大の特徴は、通常の取札には下の句しかないそっけないものだが、濃彩の絵の花鳥風月が下の句と一緒に描かれています。
通常の百人一首は、読札(人物が描かれている札)には絵が描かれていますが、取札(字のみの札 畳に並べている方の札)には絵はありませんからね。
そしてかるたの裏に『法橋光琳(ほっきょうこうりん)』と署名され落款まで押されています。
光琳が「光琳」を名乗るようになったのは、元禄5年(1692年)、光琳が法橋に叙せられたは、元禄14年(1701年)ですから、それ以降、おそらく宝永年間(光琳が50歳代)の製作ではないかと推察されます。
この尾形光琳とは、どのような人だったのでしょうか?
尾形市之丞(光琳)は、万治元年(1658年)京都の大呉服商「雁金屋」の次男として生まれました。
光琳のおじいさんの代には宮中御用を務め、父・宗謙と一緒に公家の家にも幼い頃より出入りしていたようです。
このきらびやかな公家社会に幼い頃より触れた事と、本阿弥光悦の文化村に参加して、教養や文化を学んだ事、家業の呉服屋の店先にあった、美しい反物や帯などの装飾を見て育った事。
これらの感性を刺激する環境が、後の光琳や弟・乾山の美を見る『目』を培ったのではないでしょうか。
父の死後、商売が悪化したのを機に画家としての道を進み始めました。
名門・本阿弥光悦とは親類筋にあたることから「光悦」にあやかり「光琳」と名のりました。
30歳代の時、狩野派に学び、その後 俵屋宗達と出会い飛躍的に成長しました。
元禄14年(1701年) 光琳が44歳の時、『法橋・ほっきょう』位を朝廷より叙任され、名実共に世間に認められた絵師になり、増々意気上がった光琳は大作を作りました。
この頃から作品に『法橋光琳』の落款を押すようになりました(当然、大石天狗堂製造の光琳かるた完全復刻版にも入っております)
*『法橋』=中世以降、医師・仏師・絵師・連歌師などに僧位に準じて与えられた称号であり、光琳以外では、池坊流(立花)池坊専好、(浮世絵師)磯田湖竜斎、(仏師)定朝、(大阪の漢方医)寺島良安などがいました。
この法橋光琳の落款は、光琳の署名と共に光琳かるたの4枚の
札の裏面に押されていますが、4個とも少しずつ文字の掠れ方などが違います。
是非、ご自身の目でご確認下さい。⇒https://www.tengudo.jp/korin/
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