大石天狗堂口伝 第二章
皆さんこんにちは。広報の藤澤です。
よろしくお願い致します。
前回に引き続き、大石天狗堂の起こりから、それを取り巻く時代背景など、京都の老舗かるた屋のヒストリーを綴って行きたいと思います。
ややこしい話も多々ありますが、平にご容赦願います。
1541年 九州の種子島に漂着したポルトガル人から、色々な文化が日本にもたらされました。
鉄砲、キリスト教、コンペイトウ、カステーラ、合羽(カッパ)、ブランコ、パン、テンプラ、
‥等。
それまでの日本では、人々が見たこともないアイテムや、それを生み出す技術が一気に流入してきました。
そしてその時一緒にもたらされたのが、カルタ(ドラゴンカード・ポルトガルの竜・天正かるた)でした。
(カルタってポルトガル語だったんですよ)
18世紀中頃には、ドラゴンカードから発展した『うんすんかるた』などのかるたが爆発的な大ブームとなりました。
しかしまだ当時のカルタは、一部の権力者(武士や貴族など)しか手にできない貴重品でした。
それから月日は過ぎ、天正から慶長にかけて、豊臣秀吉の朝鮮出兵があり、カルタが爆発的に広まりました。
この朝鮮出兵の時、九州の肥前(現佐賀県)名護屋に全国から武将達が集められ、朝鮮に向けて進撃して行きました。
田代定右衛門忠金の著わした『陪従私記』には、【かるたは兵士の戦場必携のものなり】と書かれており、当店製造のうんすんかるたにも『軍陣心休楽』と書かれています。
戦争開始前の待ち時間に『うんすんかるた』を使って兵達が、息抜きのひと時を楽しんでいたのでしょうね。
実際、秀吉の長子『お捨』こと『鶴松』の死後、無謀な朝鮮出兵に無理やり駆り出され、厭戦気分が諸将に広がっていました。
あげく、その留守を狙い勝手に検地(太閤検地)が行われ(検地自体は信長の時代からありましたけどね)内心辟易していました。
さらに、朝鮮の後ろ盾になっていた中国が、加勢してから日本が劣勢になり、また物資の不足がちから、兵士の間ではなおさら風紀が乱れていた事でしょう。
うんすんかるたを使った賭博が流行り、終戦後も朝鮮や名護屋から自国に戻った兵達の口コミで、うんすんかるたが全国に広まっていきました。
現在であれば、スマートフォンの無料ゲームアプリみたいな気軽さで遊ばれ、レビューを見てまた広がるみたいな感じでしょうか。
『この札(うんすんかるた)、マジ神!!』
『鬼ハマる~!』
『うんかる、一緒にやろうぜ~!!』
みたいな~。
ところが、あまりにうんすんかるたで賭博をする兵(家臣)が増えてしまい、風紀を改善する為に、禁止令が出されるようにまでになりました。
特に規律の厳しかった土佐の長曾我部(ちょうそかべ)家では、家中の者に禁止令を出し、これがカルタ禁止令の最初でした。
しかし禁止令などものともせず、主に中流以上の武士階級でしか流行っていなかったかるた遊びが『人は禁止されると余計にやりたくなるの法則』で、さらに隠れてやる人が増えていきました。
アメリカの禁酒法と一緒ですよね。
京都で初めてカルタが作られた文献があります。
元和2年(1616年)中院通村の日記の中に『京都で石川主頭志総が経師屋藤蔵という者にカルタを作らせた』とあります。
この中村通村卿が、貝合わせから発想して【百人一首などの歌かるた】考案したと言われています。
これ以後、京都や大阪でたくさんのカルタ屋が出来ました。
元禄3年(1690年)『人倫訓蒙図』という本に、
『歌カルタは寺町二条の上、(ひいなや)にあり、四十八枚は五条通りにおほし』と書かれています。
二条のひいな屋とは、もしかして雛屋(ひな人形を売るお店。雛をひいなと呼んでいた)の事か、『ひいな』とい名前の店が存在したのかは不明です。
他にも前述の六条坊門(五条通り)には、(布袋屋)というカルタ屋が在り、五条烏丸下ルに(松葉屋)という店もあったようです。
世界大百科事典の第二版によると1685年(貞享2年)京都松葉屋が木版刷りのかるたを売り出した頃から、かるた遊びは一般庶民に流行しだしたとあります。
木版画で大量に製造しだしたのでしょうね。
この頃の京都には、角倉親子が高瀬川を拓いたおかげで、水運業が盛んになり、特に五条通には船で運ばれた様々な
大衆向け雑貨や、お土産物を売る店が立ち並び、花札を売るカルタ屋も多かったそうです。
ところが、そんなカルタ大流行の京の町に『禁止令』という暗雲が立ち込めてきました!!!!!!
かるた屋、危機一髪!!
次回、の第三章を括目せよ!!!!
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