大石天狗堂口伝 第一章
皆さんこんにちは。広報の藤澤です。
最近、ブログの効果でしょうか、『花札の注文』や『インターネットを見たお客様の来店』が増えた気がします。
『大石天狗堂のブログが熱い!!!』と声を大にして言いたい今日この頃。
そんな事はさておき、今まで当ブログは、大石天狗堂の歴史的な部分にあまり触れてこなかった気がします。
実際ネットで調べても、大石天狗堂の歴史についてはでてきません。
誰も興味がないのか、知らないのか、国家機密なのか…。
大石天狗堂の歴代の頭首や、今の天狗堂代表が、メディアを通じて話した事を見聞きした方が、ツイッターやフェイスブック、ブログなどで残して下さっている位です。
大石天狗堂で働く我々スタッフとしては、自分が働いている会社の事をよく知らないでは、あまりに恥ずかしい事です。
そこで、分かる限りの大石天狗堂の伝記を残そうと思います。
かなり古く、現在存命の役員の方々も少なくなってきて、色々な書物や類似文献を頼りにしていますので、堅苦しい書き方になっておりましたらご容赦下さい。
さてさて、さかのぼりますこと213年『西暦1800年(寛政12年)』
大石天狗堂の起こりは、京都五条の高瀬川のほとりにて、初代:大石蔵之助がかるた屋を創業し商い始めた事から始まります。
この創業者大石蔵之助は、忠臣蔵の大石良雄(おおいしよしたか)こと、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)とは別人です(名前の漢字が違うし!)
討ち入りは1703年の1月ですから良雄さんは、97年位前の人です。
ですからまったく関係ございません。
(生まれた時の命名時、少しは意識したかもね)
当時、大石天狗堂は[京都市東山区本町新五丁目]に店を構えていたそうです。
当時、すぐ近くに流れる五条高瀬川は、船着場としてお土産物や、雑貨屋などの商店が立ち並ぶ賑やかな処でした。
当時、大石天狗堂が製造していた『うんすんかるた』や『花札(花かるた)』は、賭博道具としてご禁制でした。
ですから大石天狗堂は、表向きは米問屋(湊屋・みなとや)として商いを営み、裏で花札を作っていたようです。
その頃の京都には、カルタ屋(花札屋)が四十軒近くあったそうで、文献が残っているお店では、公卿中院通村が経師屋藤蔵に、かるた製作を命じた(1588年-1653年)と記録が残されていたようです。
経師屋藤蔵さんのお店では、徳川家の葵の家紋入りカルタを作っていたようです。
作っていた職人たちは、緊張したやろうな~。
だって将軍家のかるたですよ。
手に汗びっしょりかいて、丁寧に作業してはったんやろうな。
大阪(上方)や東京(江戸)にも、カルタ屋はありました。
大阪では、松屋町(まっちゃまち)の『大黒屋清右衛門』や、久太郎町(きゅうたろうまち)の『六右衛門』などの資料が残っていますが、
多くは御堂前に固まっていました。
現在の大阪市営地下鉄本町駅の南『難波別院』南側あたりで、松尾芭蕉の終焉の地として有名です。
江戸では、『笹屋』 『かぶと屋』などがありました(1686年刊行【鹿の巻筆 巻1】より)
しかし、かるた屋の大手は、京都に多くありました。
五条通りは他にも、大石天狗堂が創業する前から、カルタ屋がたくさん立ち並んでいたそうです。
京都のカルタ屋では、六条坊門(現在の五条通り)にあった『布袋屋理兵衛』が有名で、(1690年)【人倫訓蒙図彙】や井原西鶴の【懐硯】や【世間胸算用】にも出てきます。
この六条坊門は、元々六条坊門小路と呼ばれていて、五条通とは呼ばれていなかったようです。
しかし秀吉の時代に方広寺からの参道から鴨川に掛かる場所に、今は松原通りと呼ばれている場所に架けられていた五条大橋を架け替えられたようで、それからこの通りは五条通と呼ばれるようになったようです。
話は反れますが、牛若丸と弁慶がこの五条大橋の上で勝負し、負けた弁慶が家来になったお話は有名です。
でも、この頃の五条大橋は、現在の五条通りの位置ではなく、少し北に上がった松原通に掛かっていたのです。
つまり、今の五条大橋がある場所は、牛若丸と弁慶が勝負した舞台ではないという事です。
現在の五条大橋(国道9号線)は、片側四車線もある大型幹線道路で、大阪府―京都市内―滋賀県と抜けて行く重要な国道です。
当然、橋幅も広い橋です。
まさか牛若丸の時代に、こんな大きな橋がかかっていたなんて、信じられないと思っていましたが、やはり違ったんですね。
弁慶と牛若丸の戦闘シーン(?)では、橋の欄干から欄干を牛若丸がピョンピョン飛び移る描写がありますが、今の五条大橋の橋幅だと『どんだけの跳躍力だ!』って話ですよね。
話がそれましたので戻します。
その後 大石天狗堂は、正面大橋西詰に移り、現在では伏見区両替町でお店を構えております。
(最後アッサリ)
また、移りました先の正面橋とは、五条大橋と七条大橋の間にかかる小さな橋です。
豊国神社を真っ直ぐ西に来ますと『正面』に鴨川(加茂川)が流れており、その『正面』に行き着くところからその名前が付いたようです。
現在、任天堂さんの旧本社がある近くで、京都に観光に来られてご存知の方もおられかと思います。
橋を渡り切った左側に大きな釣鐘が置いてあるのが目を引きますよね。
(何の為に置いているのかは、わかりません)
そのすぐ近所に、営業はやめられましたが、手刷り花札を唯一作られていた、松井天狗堂さんのお店があります。
時は流れ、当店が伏見の地で営業するようになり、元々違う場所だった事など知る人も少なくなりました。
現在の店主(社長)は九代目前田直樹。
『え、前田なの? 大石じゃないの?』
と思われたでしょ。
実は大石天狗堂も、あの徳川御三家や、真田一族の様に、直系の子孫だけでなく、いざと言いう時の為に、親戚間で後継者を出し、家名を絶やさないようにしていました。
【大石家から世継ぎが出なかった時は、前田家から世継ぎを出す】といった具合ですね。
ちなみに真田昌幸は、真田家の長男が代々早逝する事から、長男に(源三郎)、次男に(源次郎)と名付けたようです。
現在の頭首が前田家であるという事です。
大石天狗堂が現在営業を続ける事が出来るのは、代々受け継がれてきた【技】【まごころ】【かるた作りの情熱】といったスキルや
精神もあったでしょうが、やはり歴代の頭首の時流を読む力や判断力などがその場所、その時代、その制度の中で、発揮され続けて今日にいたったのでしょう。
大石天狗堂だけでなく、何百年と続いている京都の老舗は凄いですよね。
また、続きは次回!
See you later.
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