京都パワースポットと百人一首【北野天満宮編】パート5
皆さんこんにちは。
Fです。
よろしくお願い致します。
早いもので、もう12月も半分ほど過ぎて、もうすぐクリスマス。
本日13日は、昔からお正月の準備を始める日として花街では、踊りの師匠などのお宅を回り、一年のお礼に伺い始めとする『事始め』の日とされてきました。
おせちや、大掃除 年賀状の用意など、年末はやらなくてはいけない事が多く、バタバタと慌しい事から『師が走る』と書いて【師走(しわす)】と旧暦でも言われますよね。
かるた屋も年末・年始の需要が最も多く、これからご注文を頂くかるたは勿論、すでに販売されている商品の問い合わせも多い時期です。
『かるた探していて うちの近くで大石天狗堂のかるたを買えるのは どこで買えますか?』
『お正月にと思い久ぶりにかるたを出してみたら 札が一枚無かったんですけど どうしたら良いですか?』
などなど。
まさにこの時期ならではの、お問い合わせです。
かるた、花札、百人一首のことでご不明な点がありましたら、大石天狗堂までお問い合わせ下さいませ。
さてさて、長きにわたり(と言っても全5回ですけど)の『北野天満宮編』
今回は、始まる前に天神さんの七不思議のひとつ『大黒天の燈籠』です。
場所は、三光門(くぐると正面にお賽銭を入れる拝殿、右手にお札等えお売ってる所)をくぐる手前を右折(東に向いて)してすぐの右手(南側)です。
三光門の少し東南に立つ石燈籠は台座に大黒様の像が刻まれていて、この大黒様の口に小石をのせて落ちなければ、その小石を財布に入れて祈るとお金に困らないといわれています。
石燈籠は江戸時代に「大黒屋」を中心とする質屋さんの組合によって奉献され、このことからお金の運だめしが始まりましたが、「落ちない」ことから受験生にも知られるようになりました。
古い燈籠ですので小石を乗せるときは、そっと触れてください。
【北野天満宮公式ホームページより】
筆者は、うっかり
小石を載せて満足し、そのまま帰ってしまいました。
受験生の方にも後利益があるのならチャレンジするのもいいと思いますよ。
さてさて、長くなりましたこの本シリーズも、他の神社や他のシリーズも控えていますので、今回あたりで完結したいと思います。
恨みを残し、大宰府の地で亡くなった菅原道真公
その後の藤原家や京都の町に降りかかる怨念や厄災は凄まじく、日本の三大怨霊にも選ばれており、その祟りが鎮まるまでの期間も相当長かったようです。
しかも、怨念で亡くなって人も多く、因果関係もハッキリしていました。
道真を左遷に追いやった張本人・藤原定国は41歳の若さで急死。
雷に打たれて死亡したのは、醍醐天皇に直訴するため裸足で駆けつけた道真の庇護者・宇多上皇の行く手を阻んだ藤原菅根(すがね)。
道真最大のライバル・藤原時平は、加持祈祷の甲斐なく病気が悪化し、菅原道真の祟りに怯えながら39歳の若さで狂死。
藤原家の中でも、死を免れた藤原時平の弟・忠平だけは、同情から励ましの手紙を道真に送っていたようです。
時平の子孫達だけでな、遂に醍醐天皇の皇太子の命まで奪うほど、道真の怒りは凄まじいものでした。
源光(みなもとのひかる)が狩りの最中に、底なし沼に乗馬ごと嵌り行方不明に。
醍醐天皇の皇子・保明親王(やすあきらしんのう)は、21歳の若さで急死。
その保明親王の死後に、醍醐天皇の皇太子になった慶頼王(よしよりおう)が、5歳で死去。
道真が雷帝と呼ばれる所以になった、清涼殿落雷事件では、清涼殿の庭で道真の祟りの防護策を話し合っていた、藤原清貫(きよつら)など侍女なども含む数人の上に雷が落ちました。
太宰府に左遷された菅原道真の動向監視を命じられていた、清貫は胸に雷が直撃し即死。
そのほか数人も死傷を出しました。
この事件を知った醍醐天皇も、ショックのあまり3ヶ月後無くなりました。
その他にも、洪水や台風や疫病など、京都ではほとんど起こらない厄災が降りかかりました。
この様な事から、当時の御霊信仰(天災や疫病の原因が、怨み残し死んだ者や非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」として祀り祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする信仰)の対象となり、幼き頃からの学問の功績や身分以上の出世をなした経歴を鑑みて『学問の神様』として敬い祀られるようになり今日に至りました。
京都を代表する北野天満宮ですが、百人一首という雅で優雅な遊びとはうらはらに、壮絶な人生と経歴を持った偉人の生涯がありました。
この雷帝・菅原道真公自身が、まさに【パワー(電力)】スポットですよね。
※記事の内容は、あくまで筆者の考察・見解です。
諸説あります。
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