京都パワースポットと百人一首!『金閣寺編』パート1
皆さんこんにちは。
広報の藤澤です。
よろしくお願い致します。
しかし徐々に暑くなってきましたね。
本当に、緑がまぶしく痛いほどの日差しで暑い日もあれば、日蔭だとヒンヤリして何とも心地良い風が汗ばんだ服を乾かす素敵な季節になってきました。
そんな京都で、2018年5月20日(日) 京都・岡崎公園プロムナード(平安神宮前)で開催されます、イベント『KYONOENNICHI』に大石天狗堂が出店します。
ちはやふるでも使用されている競技かるたの製作体験も無料で出来ますし、かるたの販売もしております。
時間は、開場11時~閉場19時30分の予定です。
競技かるたを自分で裏貼体験して、出来た札はお持ち帰り頂けます。
時間は5~10分位です。
大石天狗堂以外にも、ドローンの飛行体験や、VR体験、菟道高校書道部や両洋高校吹奏楽部のパフォーマンスなど盛りだくさん。
京都の食べ物屋42店が一堂に集まり、食べ歩き、食べ比べが出来る野外イベントです。
是非、お越しください。
お待ちしております。
さてさて、久々の『百人一首とパワースポットシリーズ』
今回からは、京都の観光スポットのベスト10に、必ず入る名所【金閣寺】にまつわる百人一首の話です。
正式名称は『鹿苑寺(ろくおんじ)』 といい、舎利殿「金閣」が有名な為、一般的に金閣寺と呼ばれています。
金閣寺にちなんだ百人一首の歌人と言えば、入道前太政大臣(にゅうどう さきの だじょうだいじん/西暦1171~1244年)
入道とは、仏門に入った官職が三位以上の人の事を指します。つまり元々、太政大臣やってはった偉い人が出家したんですわ。
入道する前は、藤原公経【ふじわらのきんつね/西園寺公経(さいおんじ きんつね)】とも呼ばれていました。
朝廷での位は内大臣。のちに太政大臣まで上り詰めます。
お父さんは、藤原実宗(ふじわらのさねむね)。
源頼朝(みなもとのよりとも)の義理の弟にあたり、一條能保(いちじょうよしやす)の娘と結婚しました。
藤原定家(ふじわらていか)とも親戚関係という、藤原氏のサラブレッドでした。
その立場から、新幕派(鎌倉幕府寄り)の公家として政治に強い影響力を持っていました。
天皇をあやつり、鎌倉幕府転覆を目論む(オールマイティー・スーパースキル・スペシャルポテンシャル天皇)後鳥羽上皇や、上皇の誘いに乗った討幕派(朝廷派)の藤原秀康(ふじわらのひでやす)・三浦胤義(みうらたねよし)のク―デター(世に言う承久の乱)を、幕府に報せ失敗に終わらせたのが西園寺公経でした。
その後朝廷派が一掃され、勢いづく承久の乱で功のあった武士や公家たち。
とりわけクーデター決起の報を、いち早く報せた公経の立場は、鎌倉幕府内でも一番の功労者という事で、幕府を代表する権力者になっていきました。
その後、内大臣(大宝令によると8世紀中頃から左大臣・右大臣の次の位/ナンバー4)
→太政大臣(官職中最高位/天皇の臣下の中でナンバー1という事です)
にまで上り詰めました。
今でいう内閣総理大臣をやっていた人が出家したみたいな。
初代征夷大将軍:源頼朝とも親戚の公経は、その財力から京都・北山に西暦1224年(鎌倉時代/元仁元年)『北山第(きたやまてい/北山殿とも)』という豪奢な山荘を造営し、その敷地内に『西園寺(さいおんじ)』という寺院を建立しました。
その時に藤原性から、藤原氏の遠縁にあたる由緒ある西園寺という性に性も変えたようです。
(藤原氏の公経君が、北山の山荘に西園寺というお寺を建て、名前も西園寺公経に変えました)という事ですね。
その北山・西園寺を、室町幕府第三代将軍:足利義満(アニメ一休さんに出て来る将軍様。キートン山田さんの「のほッほほほ」という笑い声が印象的)が譲り受けたのが、現在も残る金閣寺(鹿苑寺)です。
残念ながら1950年、金閣寺は焼失し、現在の金閣は再建された建物ですが、再建後の方が北山文化らしい豪奢な感じを表している事が、歴史の面白さを感じます。
金閣寺の周辺には閑静な住宅街が佇み、金閣寺の西側に小高い衣笠山(きぬがさやま:標高201m)が見えます。
京都市内で済みたい憧れのエリアの一つではないでしょうか。
また、長文になりそうなので、今回はここまで。
『後半に続く!』(キートン山田・ちびまる子ちゃんナレーション風)
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