競技かるたシェア ナンバー1&オンリー1(中巻)
皆さんこんにちは。広報のFです。
よろしくお願い致します。
前回の話(上巻)ですが、明治時代までは、世の中に色々な百人一首があり、公正な競技かるたの試合などが出来なかったという話でした。
そこで、明治25年(1892年)創刊の日刊新聞 『萬朝報(よろずちょうほう)』 の黒岩周六こと涙香(くろいわるいこう)が、競技用に総平仮名の百人一首を【関東のかるた屋○○】(正確な情報が無い為、このような表記で申し訳ありません)に作らせ、これを標準かるたとしました。
自社(日刊新聞)の新聞に 『かるた早や取り法』 なる特集記事を掲載し、明治37年に 『東京かるた会』 を設立、第一回東京かるた大会を東京日本橋常磐木倶楽部で開催しました。
しかし、鍛錬(習熟)を必要とした競技かるたは、一朝一夕では身に付かず、その為競技かるたが発行したからといって、一般的ではない事から日本全国の競技かるたは、まだ統一されていませんでした。
その後も、大改訂(大正12年)が行われ 『標準改訂公定かるた』 に切り替えられ、昭和5年に再度改訂が行われました。
昭和16年(第二次世界大戦まっただ中)
【百人一首の中の天皇・皇族を弄ぶのは不敬である】という理由から、皇族の歌仙絵を御簾で隠した 『御簾隠れかるた』 や、歌仙絵を和歌のイメージからなる歌意絵に変えた 『皇軍慰問百人一首』 などが推奨されました。
さらに昭和17年以降には、恋愛の歌が多い事から、競技自体自粛しなくていけなかったようです。
代わりに国が推奨していた 『愛国百人一首』 にて、かろうじて競技を続けていました。
戦後、国語審議会の告示で百人一首の文言(歴史仮名遣い)は、(現代仮名遣い)が表記された 『新制かるた』 が提案されましたが、結局元の歴史仮名遣いの百人一首による競技に戻ってしまったようです。
その頃、当時大石天狗堂では、百人一首の文言などを研究した、百人一首の 『定本(ていほん)』 を作っていました。
この定本とは、異本の多い古典の誤謬、誤植を検討校正して、類書中の標準となるべき正確さを備えた決定本であり、監修者には、下記の著名な方々がご協力頂きました。
校訂責任者:立命館大学 出雲路教授
校訂指導 :京都大学 吉澤名誉教授
:京都大学 西田名誉教授
:京都大学 澤潟教授
:國學院大學 武田教授
これにより正式な百人一首の文言を決定し、これ以降に製造した当店の全ての小倉百人一首は、定本を元に製造致しました。
しかしこの定本により、『競技かるた』 の文言と違いが出てしまいました。
例えば、21番 素性法師の場合
「そせいほふし」(定本前までの百人一首文言)と「そせいほうし」(定本後の百人一首文言)と
「まち出(いで)つるかな」(定本前までの百人一首文言)と「まち出(いづ)るかな」(定本後の百人一首文言)
など、取札37枚(70か所)、読札に至っては殆ど全部だったようです。
特に今でも多いのが『いづくもおなじ』と『いづこもおなじ』の誤植ではないかという問い合わせです。
勿論、これは誤植ではありません。
しかし、昔からの協会の専任読手さんは、そのままお詠みになって競技をされておりました。
『関東のかるた屋○○』が競技かるたを作らなくなり、大石天狗堂が全国全ての競技かるたを手掛けて製造する事になった際、『今の詠み方で統一されているので、競技かるたは今まで通りの文言で作ってくれ』とかるた協会に相談されました。
ですので、かるた会用に製造している商品は、現在の全日本かるた協会になった今でも、前述の理由から文言違いの百人一首を製造しています。
少し、長くなってきましたので、この辺で、一旦区切り。
次回もお楽しみに。