競技かるたシェア ナンバー1&オンリー1(上巻)
皆さんこんにちは。広報のFです。
よろしくお願い致します。
当店が製造・販売するかるたで、もっとも【全日本かるた協会】に愛用され、また信頼されている看板商品があります。
それは、競技用百人一首【標準】取札・読札です。
略して『標準!』
百人一首『標準』は、名前の通り競技かるたとして使用されている百人一首です。
この商品、一つの箱に読札と取札を一緒に収納せず、別々に入れています。
理由は、取札(畳に並べる札)は、選手が使う為、人数に合わせて必要ですが、読み手(朗詠する人)は一人の為、セットになっていると読札ばかりが余ってしまい無駄になる為です。
ですから、標準取札だけ買うと、読札は入っておりませんのでご注意下さい。
この競技かるた(全日本かるた協会公式)は、世界中で当店でしか作っておらず、競技人口約100万人(学校のクラブ活動や子供会活動も含んじゃってます)が当店の百人一首を使って、日々精進されておられます(見たわけではありません。あくまで想像です)
国内シェア100%(という事は、世界シェア)という事です。
↑ここ重要‼!
書いていて、筆者も改めて『スゲー!!』と思いました。
そもそも、なぜ競技かるたを当店が作るようになったのか?をお話してまいります。
時は遡る事 江戸中期。
それまで一部の階級の人々の娯楽だった百人一首をはじめとする歌かるたは、一般庶民の間でも大流行しました。
ちなみに歌かるたと呼ばれる物は、【後撰百人一首】【武家百人一首】【女房百人一首】【源氏百人一首】等、色々な種類がありました。
そこで他の百人一首と区別する為に、藤原定家の選定した百人一首に関しては、選定したとされる京都嵯峨・小倉山にある山荘の名から【小倉百人一首】と呼ばれるようになりました。
定家の親友 宇都宮蓮生(頼綱)が、法然上人に帰依した事から、京都西山(現・京都西山高等学校周辺)に住んでいました。
そして定家の山荘も近かったようです。
鎌倉歌壇の一員であった蓮生が、歌の添削の為、定家の山荘に赴くうちに親しくなり、定家の息子(為家)と蓮生の娘との婚姻の運びとなったそうです。
蓮生が、山荘の障子を飾る為、色紙の選定を定家に依頼し、この時の和歌集に後に数歌プラスした物が、今日の『小倉百人一首』と呼ばれるようになりました。
江戸~明治には、かるた遊びも次第に進歩し、各家庭や各地でかるた会が盛んに行われるようになりました。
しかし、まだその当時のかるたの札は、変体仮名で書かれており、書体もまちまちだったので、競技で競うには、公平では無かったようです。
大石天狗堂も当時、小倉百人一首を作り関西を中心に販売していましたが、まだ競技用としてでは無く、あくまで大石天狗堂製小倉百人一首でした。
そりゃ~競技をする人にとって、自分が普段練習に使っている札で試合をする方が、相手より有利に決まっていますもんね。
しかし、それでは試合に不公平という事で、一つの百人一首に統一する為に一人の男が立ち上がりました。
途中ではありますが、長くなってしまった為今回はこの辺で。
【中】巻もお楽しみに~!