大石天狗堂口伝 第四章
皆さんこんにちは。広報のFです。
大石天狗堂を取り巻く歴史と当店の成り立ち。
歴史家でも何でもない筆者が、色々調べながら書くのは、凄く大変ですが面白くて為になる今回のブログ。
引き続き始めたいと思います。
さてさて、寛政の改革により、花札が取締りの対象になり、カルタ屋としては大っぴらに仕事が出来ない。
そこで、必殺仕事人のように表の家業と裏の家業の営業をしておりました(!!!_-)-☆
当時 大石天狗堂も表向きは、『湊屋(みなとや)』という名前で米問屋を営み、奥で花札を作っていました(というより米屋の方はカモフラージュ?)
しかし作物が不作なのに米屋が営めるのでしょうか。
しかし、役人の目を欺いていたのですから、米屋は米屋で、上手く経営していたのでしょうね。
そうだとすると当時の天狗堂の頭首は、凄い商才ですよね。
【ザ☆二足のワラジ!!】
今の世で言うと、表向きはオンライン通販をしながら奥でIOS違法アプリの開発をするようなものでしょうか。
なんかありそうな話ですよね。
その頃の京の町には、40軒以上のかるた屋があり、それぞれ『○○天狗堂』とか『天狗屋○○』といった屋号の看板を上げておりました。
これは、当時ご禁制の品を内緒で買いに来た客たちが、『おい、おやじっ! 今日はこれあるかい?』と自分の鼻を人差し指で指します。
すると店主が、『ヘイ、ちょっと待っておくれやす』といって奥から花札を持って来る。
といった一種の暗号でした。
その鼻が誇張されて看板に天狗が描かれるようになったようです。
花札の【はな】=顔の【はな】=天狗の【はな】と、【はな】の三段活用というわけです。
でも私が思うに、役人達も『天狗の看板』が掛かっていたら、『あの米問屋は、花札を売っている店かもしれないぞ』と不審に思い監視すると思うのですが、大丈夫だったのでしょうか?
それとも、天狗の看板はその当時は、掲げていなかったのでしょうか?
前述したように表向きは米問屋なので、看板も【米問屋 湊屋本店】とデカデカと出し、看板の隅に(大石天狗堂はここ☞)と表示していたのかも。
それとも、そのような心配はいらないほど、役人の中にもファンがいて、お目こぼしがあったのかもしれませんね。
『うむ、まあ、なんだ! わしは何も見ておらんぞ!』とか言って、自分用に花札を買ったりしてたのかもしれませんね。
昔から、かるた作りも西陣織などと同じで、色々な職人による分業で作られていました。
生地作り、墨版刷り、色刷り、裏紙作り、小断ち、裏貼り、検品、箱入れ、出荷などです。
現在、機械化になっている作業もありますが、行われている工程は、おおむね同じような分業で作っています。
当時の花札作りには、カルタ職人だけでなく、表具屋(掛け軸の裏の布部分の仕立)の職人や、京雛(ひな人形)の職人など、別の職種の職人もかるた作りの仕事を受けていたようです。
それぞれの職人の仕事を経て、最後の仕上げ的な部分が当店の仕事でした。
つまり職人への指示から、部材の手配、貼り上がった札の検品、箱入れ、出荷作業、販売などの全ての工程を管理手配する総元締めが大石天狗堂というわけです。
いわゆるプロデューサー?
しかし、明治・昭和の激変の時代、かるたの需要が減り始め、不安に感じた多くの職人たちは、定職を求めカルタ店の社員になりました。
沢山の職人を抱えられた大きなカルタ屋(会社)は残りましたが、それ以外の小規模なカルタ屋は、経営を続けられずやめていきました。
重ねて、カルタ屋に【骨牌税(かるたぜい)】と言う逆風が吹き始める事になるのでした。
かるた屋の生き残りをかけた激動の時代!
大石天狗堂の命運やいかに!!!!
To be continued
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