大石天狗堂口伝 第三章
皆さんこんにちは。広報の藤澤です。
宜しくお願い致します。
またまた『大石天狗堂口伝シリーズ』始めたいと思います。
このシリーズ、なかなかに小難しい話ばかりで『教科書みたい』と感じられる方も
おられるでしょうが、かるた作りをしてきた歴史の中で、創業者や継承者の
方々のご苦労・創意工夫、そして多くのお客様との関わり等、
色々な出来事を経て今日の大石天狗堂がある事を忘れない為のヒストリーです。
書いている筆者にとっても、同業他社様にとっても無関係ではないので、
少し真面目に続けて行きたいと思います。
江戸時代後期の京の町にも、老中松平定信が主導で進められた
幕政改革『寛政の改革』(1787年~1793年)が行われると、
緊縮財政や風紀取締りなど、幕府の財政安定化が始まりました。
今までは『一応 取り締っておこうかな~。仕事やしな~』といった程度の仕事ぶりの
役人達でしたが、『江戸幕府の威信にかけて!必ず捕まえるのだ! 捕まえるまで奉行所の敷居はまたがせないから心せよ!!!!!!』と本気で賭博(うんすんかるたや花札等)札の取締りを始めました。
この改革は田沼意次等の役人の風紀の乱れがきっかけで始まったのもありますが、
財政難を立て直す為、庶民にも倹約や思想統制を行うようになりました。
その為、皆が定信さんに対し反感を抱くようになっていきました。
(日本の為、良かれと思ってやったのでしょうが、損な役回りのお人ですね)
この松平定信という人はどのような人だったのでしょう。
御三卿の田安徳川家の出で幼名:賢丸(まさまる)(1758~1829年)
名前の通りの賢いお子様でした。
8代将軍徳川吉宗(『よしむね評判記―!! 暴れん坊将軍!!!!!
ジャジャジャーン、ジャージャージャー、ジャーン』(暴れん坊将軍OPより 古!!!!)
のお孫さんです。
(当然、松平健さんの一族ではありません)本物の吉宗さんの孫にあたります。
しかし定信が18歳の頃、当時の権力者:田沼意次の政治に対し
『賄賂政治/わいろ政治』と批判し疎まれたようです。
賄賂とは、権力者に自分にとって有利になるように金品などを送る事です。
田沼意次は、その賄賂を積極的に奨励したそうです。財政立て直しの一環や、緊縮財政や風紀取締まりのガス抜きという名目あったかもしれませんが、私利私欲からの可能性も否定できませんよね。
その後定信さん、自ら幕閣入りを狙い、田沼意次に賄賂を贈っていたらしい(なんじゃそりゃ!)
気質は『隠密の後ろに隠密をつけた』と言われるほど猜疑心が強く、神経質だったそうです。
たまにこういったややこしい方いますよね。
しかしこの人は、他者にのみ倹約を強いたわけではなく、自分自身も率先して
質素倹約に勤める有言実行タイプ。
うんか(害虫)の大発生による 享保の大飢饉(1732年~)
そして同じ時期に(宿毛一揆など)の各地の藩政、幕政に対する暴動
自分が藩主を務める白河藩(現在の福島県白河市)では、迅速な飢饉対策が功を奏し、天明の大飢饉(1782年~1788年/浅間山噴火により日照不足からおこる。近世最大の飢饉)で被害の大きかった東北地方の中で、白河藩では餓死者がゼロだったそうです。
他人には偉そうな事言うけど、自分はやらない人とは大違いですね。
おじいちゃん(吉宗)の時代に起きた宝永地震(1707年10月)
その49日後に噴火した富士山大噴火(1707年)
これらの多くの災害が、民衆を苦しめました。
噴煙により日照量の低下で作物の不作など、これでもかと度重なる大災害と、そんな復興しない状況の中行われる年貢の取立て。
民衆の不満もピークに達していました。
そんな閉塞感と困窮を極めた暮らしの中『天明の打ちこわし(1787年)』が全国規模で同時多発的に起き、ますます幕府の政策は難航。
江戸時代と違い、3年前に起きた東日本大震災では、大変な災害でしたが、直接の被害のなかった地域などが協力して復興に向けて協力出来る状況です。
(まだまだ、足りませんがまずは『忘れない』『終わっていない』という事を考えていきましょう)
しかし定信さんの時代は、情報も統制力も機動力も、すべてが現代より難しかったでしょう。
そんな時代の人々の数少ない息抜きは、カルタだったのではないでしょうか。
それとも、幕府が庶民達のガス抜きの為に、徹底的にカルタを根絶やしにしなかったのでしょうか。
謎は深まるばかり!
続きは次回に。
アテブレーベ・オブリガード!
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