尾形光琳作『光琳かるた』の秘密
みなさん、こんにちは。大石天狗堂 広報の藤澤です。
当店の代表的なかるたに、尾形光琳の幻の百人一首『光琳かるた完全復刻版』がございます。
あまりの豪華さに、このかるたで本当に百人一首する人は、ほとんどいないでしょう。
札を数枚、季節の和歌で組み合わせてたり、好きな歌人、好きな和歌で組み合わせて飾ったりと、観賞用にされる方が多いかと思います。
額に入れて飾るのも良いですよね。
尾形光琳の作品のほとんどが、国宝に指定され、どこかの美術館・博物館に行かなければ直接見ることは出来ません。
ましてや手に取り、一枚一枚じっくりと堪能することなど、到底出来ないでしょう。
その尾形光琳のかるた(あくまで復刻版ですが)を、ご自宅でゆっくり鑑賞出来たら、本当に贅沢な時間をすごす事が出来ますよね。
もし、知り合いやご友人が来訪し、この尾形光琳のかるたを見れば、その希少さにびっくりする事は、容易に想像出来ます。
光琳の作品には、制作年代を確定できるものは少ないそうですが、多くの作品に「法橋光琳」の落款が見られることから、彼が本格的な絵画を制作したのは法橋位を得た44歳以後、59歳で没するまでの十数年間だと推定されています。
しかしこのかるたが製作された頃の日本を、歴史的大災害が襲いました。
1701年 尾形光琳が法橋位を叙任された(光琳44歳、京都在住)
1703年 関東地方を襲った元禄地震発生 規模はマグニチュード7.9以上の巨大地震(光琳46歳、京都在住)
1704年 光琳にとって、パトロンであり、唯一の肖像画のモデルである中村内蔵助が、江戸詰となったのを頼り光琳も江戸へ下った。
1707年 南海トラフ沿いに観測史上最大の宝永地震発生そして富士山が噴火(宝永噴火=中部、近畿、四国、九州の広い地域にまたがり、東海地震・東南海・南海地震が同時に発生し、地震の規模はマグニチュード8.4以上と日本最大級の巨大地震)の起こった年(光琳が江戸に5年ほど滞在していた時の出来事)
1709年 光琳、京都に戻る。
1716年 徳川吉宗(暴れん坊将軍)が8代将軍になった年の7月に、光琳死去(享年59歳、京都在住)
江戸時代の中期に起きた大災害によって、日本中が大変な事になり、文化や暮らしが一遍したのが、光琳の活躍した18世紀(1701~1800年)前半でした。
筆者には、光琳がかるたを作ったのが、江戸で暮らしていた時期なのか、京都に戻ってからの作品なのかはわかりません。
しかし、もし未曽有の大災害の後に『光琳かるた』という素晴らしい作品を作り上げたのでしたら、江戸滞在中に体験した大災害が光琳になにかしらの衝動を与えたのかもしれないと感じました。
今回は、尾形光琳のあまり知られていない、
しかし非常に興味深い話でした。
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