琳派400年の年 光琳かるたをお忘れではありませんか?
みなさん、こんにちは。大石天狗堂の広報Fです。
みなさん今年が、琳派400周年の年という事をご存じですか?
琳派とは、桃山時代、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ:1558~1637年)が、徳川家康から拝領した、京都・鷹ヶ峯の地に光悦村をおこし、後に俵屋宗達(たわらやそうたつ:生没年不詳)などが継承し誕生した、画風の事です。
師弟関係や、家元制度ではなく、残された作品を模倣し、さらに新たな技法を加え、精錬させて己の作品としてきた達人たちの、後の人が名付けた総称が【琳派】なのです。
前述の本阿弥光悦、俵屋宗達の他に、尾形光琳(おがたこうりん:1658~1716年)、弟乾山(おがたけんざん:1663~1743年)、酒井包一(さかいほういつ:1761~1828年)、鈴木其一(すずききいつ:1796~1858年)など、有名な偉人が琳派に含まれます。
そんな琳派が、光悦村をお輿し、今年で400年。
更に、光琳没後300年忌の年でもあります。
そんな、琳派の作品を鑑賞する機会も多く、当然京都や東京などで、多くのイベントや展覧会が行われております。
詳しくは、下記のホームページをご確認下さい。
『京都・細見美術館 琳派のきらめき』 横浜髙島屋 8階ギャラリー(2015年4月15日~27日)
『京都・細見美術館 琳派のきらめき』 日本橋高島屋 8階ホール(2015年4月29日~5月11日)
『燕子花と紅白梅』 根津美術館(2015年4月18日~5月17日)
そんな琳派の一人、尾形光琳の残した作品の一つ。
当店の代表的なかるたに『尾形光琳の幻のかるた光琳かるた完全復刻版』がございます。
あまりの豪華さに、このかるたで本当に百人一首する人は、ほとんどいないでしょう。
札を数枚、季節で組み合わせたり、好きな歌人や和歌で合わせた組み合わせで飾ったりと、観賞用にされる方が多いかと思います。
額に入れて飾るのも良いですよね。
尾形光琳の作品のほとんどが、国宝に指定され、どこかの美術館・博物館に行かなければ直接見ることは出来ません。
まして手に取り、一枚一枚じっくりと堪能することなど
出来ないでしょう。
その尾形光琳のかるた(あくまで復刻版ですが)をご自宅でゆっくり鑑賞出来たら、本当に贅沢な時間をすごす事が
出来ますよね。
もし、知り合いやご友人が来訪し、この尾形光琳のかるたを見れば、その希少さにびっくりする事は、
容易に想像出来ます。
光琳の作品には制作年代を確定できるものは少ないが、
多くの作品に「法橋光琳」の落款が見られることから、
彼が本格的な絵画を制作したのは法橋位を得た44歳以後、
59歳で没するまでの十数年間だと推定されています。
しかしこのかるたが製作された頃の日本を歴史的大災害が
襲いました。
1701年 尾形光琳が法橋位を叙任された(光琳44歳、京都在住)
1703年 元禄地震発生 規模はマグニチュード7.9以上の
巨大地震(光琳46歳、京都在住)
1707年 宝永地震発生そして富士山噴火
(宝永噴火=中部、近畿、四国、九州の広い地域にまたがり、
東海地震・東南海・南海地震が同時に発生し、地震の規模は
マグニチュード8.4以上と日本最大級の巨大地震)の
起こった年(光琳が江戸に5年ほど滞在していた時の出来事)
同年 徳川吉宗(暴れん坊将軍)が8代将軍になったのが
1716年。同年7月に光琳死去(享年49歳、京都在住)
江戸時代の中期に起きた大災害によって、日本中が大変な事に
なり、文化や暮らしが一遍したのが、光琳の活躍した
18世紀(1701~1800年)前半でした。
筆者には、光琳がかるたを作ったのが、
江戸で暮らしていた時期なのか、京都に戻ってからの
作品なのかはわかりません。
しかし、もし未曽有の大災害の後に
『光琳かるた』という素晴らしい作品を作り上げたのでしたら、江戸滞在中に体験した大災害が光琳になにかしらの衝動を与えたのかもしれないと感じました。
今回は、尾形光琳のあまり知られていない、
しかし非常に興味深い話でした。